それから暫くは何もなく穏やかに過ごしていました。
その後、父が家を新築して下宿屋を経営することになりました。
家が完成して、とても大きく立派な家でした。
ある日トイレに入り、しゃがんで目の前を見ると、漆喰でま白な大きな壁がありました。
何かうれしくなり、絵を描きました。その絵は小田急線の線路をイメージをしてどこまでも続くよ的でなかなかよく描けていました。
その日の朝、父が大きな叫び声をあげ隣近所に響き渡りました。
『泉屋』で何かあったそうだぞとひそひそ話で、中には乾物で大儲けをしたからと妬みを持っている人もいたみたいです。
父になぜいたずら書きをしたのかを問いただされましたが、私の中では大真面目で悪いことをしたとは思っていませんでした。
父はお寺の住職に相談したり、怒ったり泣いたり、あまりにも倅が馬鹿なので悩んだみたいです。
『地球子』にしてみるとさほどの事とはおもっていません。ただそれから20数年間座るたびにもう少しうまく書けばと思いました。
その後父は何も言いませんでした、後に父があの時住職に相談したとき、住職はこの子は将来貴方の役に立ち、親孝行の子になりますよと言ったそうです。
事実長じて親孝行をしました。今は草葉の陰で見ていると思います。
2016年9月9日
我は地球子、宇宙人
そのような事があって幼稚園のテストが近ずいてきました。
幼稚園は幡ヶ谷にある福田幼稚園です。
私の兄もそこの園児として通っていました。その中には有名な女優さんで、吉永小百合さんが園児としていました。今でいう有名幼稚園でした。
そのような有名幼稚園のテストを受けました、所が福田幼稚園の隣に牛の牧場があり、その光景は初めて見る風景に『地球子』は興奮してしまい、先生の話は聞かず、自分の思ったことを一生懸命してしまった為、不合格になりました。幼稚園では『悪戯子』の烙印を押しました。
両親はテストに合格すれば来年はピカピカの幼稚園です。いろいろ考えがあったようですが、あきれ返ってしまいました。
ただ両親はあきらめません、昭和28・29年のころは品物も価格も高いころでしたので、『乾物屋』は強し毎日自転車に砂糖・乾物・諸々を持って日参が始まりました。いつの頃からか幼稚園に通っていました。
ただ家では父が良しというまでジーと座って絵を描いたりしていました。
それでも幼稚園の隣が気になって何回か先生に叱られた記憶があります。
後に座って絵を描いたりしていたことが、大変な事件に発展していきます。
幼稚園は幡ヶ谷にある福田幼稚園です。
私の兄もそこの園児として通っていました。その中には有名な女優さんで、吉永小百合さんが園児としていました。今でいう有名幼稚園でした。
そのような有名幼稚園のテストを受けました、所が福田幼稚園の隣に牛の牧場があり、その光景は初めて見る風景に『地球子』は興奮してしまい、先生の話は聞かず、自分の思ったことを一生懸命してしまった為、不合格になりました。幼稚園では『悪戯子』の烙印を押しました。
両親はテストに合格すれば来年はピカピカの幼稚園です。いろいろ考えがあったようですが、あきれ返ってしまいました。
ただ両親はあきらめません、昭和28・29年のころは品物も価格も高いころでしたので、『乾物屋』は強し毎日自転車に砂糖・乾物・諸々を持って日参が始まりました。いつの頃からか幼稚園に通っていました。
ただ家では父が良しというまでジーと座って絵を描いたりしていました。
それでも幼稚園の隣が気になって何回か先生に叱られた記憶があります。
後に座って絵を描いたりしていたことが、大変な事件に発展していきます。
2016年9月6日
我は地球子、宇宙人
その当時我が家は代々木上原で乾物屋の『泉屋』を経営していました。
両親は毎日が忙しく子供のことをかまう時間もなく、早朝より夜更けまで毎日働いていました、だからといって我が家が特別ではありません。
隣近所の子供たちも大して変わりなく皆生き生きと生きていました。
そんなある日、面白い遊びを見つけました。我が家の路地の奥より小田急線の登戸方面に行く電車が簡単に乗れることにきずきました。
電車が来ると大人の人の裾に少しつかまって飛び乗り登戸方面に一人旅の冒険のはじまりです。
所が我が家では大騒ぎで、午後三時になっても、四時になっても帰ってきません、そのうち誰かが誘拐されたと言い出す人も現れて大変になり、知っちゃか、メッチャかになってしまいました。
上原駅についたころ薄暗く騒々しく何か『まずい』と子供心に思いました。
家には奥の細道からそーと帰り、押し入れに隠れ疲れていたので寝てしまいました。
しばらくしてから押し入れの中からいびきが聞こえてきて一件落着を見ました。
両親は毎日が忙しく子供のことをかまう時間もなく、早朝より夜更けまで毎日働いていました、だからといって我が家が特別ではありません。
隣近所の子供たちも大して変わりなく皆生き生きと生きていました。
そんなある日、面白い遊びを見つけました。我が家の路地の奥より小田急線の登戸方面に行く電車が簡単に乗れることにきずきました。
電車が来ると大人の人の裾に少しつかまって飛び乗り登戸方面に一人旅の冒険のはじまりです。
所が我が家では大騒ぎで、午後三時になっても、四時になっても帰ってきません、そのうち誰かが誘拐されたと言い出す人も現れて大変になり、知っちゃか、メッチャかになってしまいました。
上原駅についたころ薄暗く騒々しく何か『まずい』と子供心に思いました。
家には奥の細道からそーと帰り、押し入れに隠れ疲れていたので寝てしまいました。
しばらくしてから押し入れの中からいびきが聞こえてきて一件落着を見ました。
2016年9月5日
我は地球子・宇宙人
御無沙汰しました、これから上記のタイトルで今までの自分を書いてみようかと思い立ちました。
私の一生を、幼少期・少年期・青年期から晩年の今日までにしてみます。
私はこのお寺の隣の産婦人科で昭和23年3月4日、七赤・子年生まれです。
兄弟は兄一人・妹一人の三人兄弟です。
幼少期は体が弱く、いつ死んでもおかしくない体だったようです。
言葉は「あああううう」とかしゃべれず、足はたちあがれず「座ったままひきずり」あるくことしかできず、両親は身体障害者だとおもっていたようです。
私が三才の時にこのお寺の開山と両親は巡り合い徐々に信仰を深めていきました。その頃私が地球子の下地を形成したょうです。
そのようなある時、突然私は立ち上がり、しゃべり始めたそうです。
そのおしゃべりは、うるさく絶えず両親に質問をしたようです。
「あれはなんだ」「これはなんだ」「あのひとはなにをいっているのか」・・
私の一生を、幼少期・少年期・青年期から晩年の今日までにしてみます。
私はこのお寺の隣の産婦人科で昭和23年3月4日、七赤・子年生まれです。
兄弟は兄一人・妹一人の三人兄弟です。
幼少期は体が弱く、いつ死んでもおかしくない体だったようです。
言葉は「あああううう」とかしゃべれず、足はたちあがれず「座ったままひきずり」あるくことしかできず、両親は身体障害者だとおもっていたようです。
私が三才の時にこのお寺の開山と両親は巡り合い徐々に信仰を深めていきました。その頃私が地球子の下地を形成したょうです。
そのようなある時、突然私は立ち上がり、しゃべり始めたそうです。
そのおしゃべりは、うるさく絶えず両親に質問をしたようです。
「あれはなんだ」「これはなんだ」「あのひとはなにをいっているのか」・・